「生命の数理」(共立出版)の序文


序 章  はじめに

数理生物学とは

 20世紀の前半が量子力学や相対性理論による物理学の革命的展開の時代だったとすれば、20世紀後半から21世紀にかけては生物学が急激に進展する時代といえる。とくに遺伝子の実体が明らかになり、その情報の読み取りや操作ができるようになってから、分子生物学手法によりさまざまな生命現象の基本が解明された。その一方で、人間活動による生態系の破壊や生物種の絶滅が問題になってきた。それらの現象を理解するための基礎分野として生態学が注目を集めるようになった。

 このような生命科学・生物学の幅広い分野において、基本概念を数理モデルとして定式化しその解析やコンピュータシミュレーションによって生命現象を把握するという数理的アプローチが展開されている。これらは数理生物学もしくは理論生物学と呼ばれる。

 ポストゲノム時代というスローガンのもとに、配列情報、遺伝子発現と蛋白質の立体構造などのデータベースを組み合わせ、そこから働きを読み取っていく研究が情報科学の一分野として発展してきた。その一方で、システム生物学など、細胞内や生体内での現象の数理モデリングとその解析の部門も発達している。そのため生物学や生命科学とそれらの応用分野の学生には、数学の素養が必要になってきた。生物学の中でも、生態学、進化学,動物行動学といったマクロ生物学の分野では、数理モデルの扱い方についてのトレーニングはすでに必須のものになっている.これらの分野では、統計学やシミュレーションなどが研究上で始終用いられているだけでなく、非線形力学系の挙動やゲーム理論の基本についての理解なしには、分野で何が主要な研究テーマであるのかを理解することすらできなくなっている。これからは、分子生物学を中心としたミクロの生命科学においても数理モデル取り扱いの素養が研究者に要請されるようになるだろう。

 他方では、数学および数理科学において、生物学・生命科学であらわれるモデルの数理的研究が盛んに行われるようになってきた。応用数学もしくは「現象の数学」も重要視されるようになりつつあるが、その中でも数理生物学は、今後急速にのびると予想される。

本書の狙い

 本書は、主に生体内の諸現象に対して数理的な解析がどのようになされるのかを解説し、また生命科学やその応用分野の学生や研究者が数理的な手法に親しむことを目指すものである。大学の生命科学や生命情報学部などにおいて、「数理生物学」などの科目の教科書もしくは参考書として使用されることを念頭において執筆した。読者層として、生物学および生命科学の大学学部生(専門課程)および大学院生、研究者を念頭においた。他方で応用数学や数理工学などの分野の学生や研究者が、具体的な生命現象に数理モデルがどのように役立つのかを知るためにも使える。

 コンピュータシミュレータによる生体内・細胞内プロセスの解析をトピックスとして紹介した書物は多数出版されているが、数理的な道具立てに対する教育を考えると、体系だった説明をともなう教科書が必要である。他方で、非線形物理の書物や複雑系科学で生命系のモデルが例として取り上げられることがある。これらに対して、本書では、生物学・生命科学の基本概念を選び、それらを扱う上の数理的基礎を学べるようにした。

 私の前著の「数理生物学入門:生物社会のダイナミックスを探る」(共立出版)は、生態学・動物行動学から題材にとって生物学の学生に対して私が行っている数学の講義をもとにしたものなので、基本的な数学を説明することに重点があった。本書は、それを読み終えた読者を想定しているが、これだけでも独立して学べるように,付録の説明や演習問題をつけた。またとりあげるトピックスは基本的に体内で生じている生命現象を中心としたものだが、性の進化や最適成長など生化学や分子生物学が専門の学生・研究者にもぜひ知っておいて欲しいと考えることがらも含めた。また格子モデルやカオス結合系などを教えるには、森林の動態などの例をとりあげるのは、それらが具体的対象としてもっとも分かりやすいと考えたからだ。しかしそれらの数理的モデルは、免疫や神経型など体内や細胞内の現象を理解する上にも繰り返し表れるものである。

 本書では、基本的なアイデアが理解しやすいようにと考えて題材を選んだ。研究の場で出会うモデルもしくはシミュレータは、もっとずっと複雑だと感じられるかもしれない.しかし本書で取り扱うモデリングの基本が理解できていれば、それらの組み合わせによって、より複雑な系の挙動を理解することも自分でモデルを作成することもできるはずである。


様々な分野での数理的取り扱いの進展について

 本書の構成に入る前に、生物学の諸分野において数理的な研究が果たしてきた歴史について、ごく簡単に紹介しておきたい。

生態:

 ロトカ・ヴォルテラ式に代表されるように、生態学ではその初期段階から簡単な数理モデルによる理論が定式化され、フィールド研究推進の指針を与えてきた。近年は、集団の空間的パターンや空間構造がもたらす進化や共存への影響に関心がもたれるようになった。

 1970年代には行動生態学において最適化やゲーム理論にもとづいたモデルが盛んに研究されるようになった。それは生物の生活史や行動、性表現などが進化の結果として選ばれてきたものとの考えにもとづくものである。

 人間活動の影響から生態系に対する破壊的影響に対処するために、生態系管理方策や絶滅危惧種の保全の研究などに、数理モデルが盛んに用いられるようになった。  現在のところ、生態学は生命科学全体の中で数理的研究の意義がもっとも確立している分野である。

社会:

 ゲーム理論はもともと社会科学や経済学の基本を理解するために作られた数学であった。進化における遺伝子頻度の動態によって基礎づけることにより、ゲーム理論は生物学、ことに動物行動学においてなくてはならない数理モデルになった。近年、脳科学の進歩や実験経済学の発開により、人間の意思決定の基本を理解する上で生物学的基礎が抜きにできないことが明らかになってきた。生物学で展開される進化ゲームの研究は、人間社会の研究にも影響を与えている。

進化:

 進化は突然変異の出現と広がり、置換によって生じる。この過程は集団遺伝学において微分方程式モデルによって調べられていた。木村資生が拡散モデルを導入して確率性を取り扱えるようになった。DNA の塩基配列が読み取れるようになると、遺伝子系図のデータを解析する手法などが展開された。これらはゲノム時代にあたりますます重要性を増しつつある。  進化研究の基本は、現存する生物を比較し、それらの系統関係を推測するところにある。しかし近年は微生物などを用いて進化の実験的研究がすすめられるようになり、理論モデルの検証が重要性を増している。

発生と形態形成:

 多細胞生物は、受精卵というとても単純な1細胞から発生をはじめる。その後、形を作りながら細胞がさまざまな組織に分化していく。一様な場でも、化学反応とランダムな拡散だけで、不均一なパターンが自律的に出現すること示すモデルがTuring (1952)によって提案された。それは熱帯魚の縞模様など、自己組織的に空間パターンが創りだされる場面で盛んに用いられてきた。

 20世紀末の分子生物学の進歩によって発生には非常に多数の遺伝子とその産物が関与していることが明らかになった。これからは3次元の場で行われる形態形成を理解するための数理的研究が急速に進むであろう。

神経科学:

 神経細胞には、細胞膜にチャネルタンパク質があり電位に依存して開閉することが神経の一時的興奮を引き起こす。Hodgikin and Huxley (1952)は実験によってこれを明らかにするとともに、数学モデルとして定式化した。それをもとに、神経信号がつくられスパイクとして伝わることの研究がすすめられた。また単純な情報処理を行うニューロン素子が多数結合する系、神経網回路の理論も発展した。ニューロン間の伝達効率が変化することにより、さまざまな形の学習が可能であることが明らかになった。最近は、よりマクロなレベルの運動制御、視覚情報処理、学習行動などが調べられ、小脳や海馬、大脳基底核といった脳の特定部位の機能解明とモデリングが進んでいる。

医学:

 感染症の動態についてはKermack and McKendrick (1927)という古典的論文以来、さまざまなモデルが研究されてきた。多量の詳細なデータが得られるために、政策決定に用いられるモデルは精緻なものになっている。また病原体の毒性や宿主の耐病性の進化は、短い時間で生じる進化の代表例である。

 ウイルスなどで、宿主の体内で免疫系によって抑え込まれると、突然変異により免疫系による捕捉を逃れる。そして宿主体内で速く進化する。その理解のために免疫系の反応ダイナミックスを取り込んだモデルが発展している。他方で、免疫反応にいたる細胞内プロセスの詳細なモデルも研究されている。

 上皮組織や腸管、血液組織などには、生涯を通じて分裂し続ける幹細胞がある。これらが突然変異によって細胞の増殖率が速くなるのが発癌である。その後、血管新生や転移などの能力を獲得して癌が悪性化する過程は、確率過程モデルによって解析される。

生物情報学:

 遺伝子情報をすべて解読するゲノムプロジェクトの成功とともに、多量のデータを解析する手法の研究が急激に進展しており、情報科学の1分野として確立しつつある。他方で細胞内の反応などを微分方程式などでモデル化する系の研究も重要になっている。さらには多数の種類の遺伝子やタンパク質の関連を整理し、その規則性を探る研究もすすめられている。


各章の内容について

 第1章では,生物学の中で一番簡単な数理モデルとして、細胞の増殖についての式と、遺伝子の発現やタンパク質の反応の微分方程式について紹介する。第2章はサーカディアンリズムをつくりだす反応系をとりあげて、複数の要素が互いに促進したり抑制したりすると、振動が生じることがあることを示す。そこでは、周期的振動を安定につくり出すモデルのもつ性質、また温度によって周期がどのように影響するかを議論する手法を説明する。

 第3章から第6章までは空間的なパターンの形成に関係したモデルを紹介する。まず第3章では熱帯魚の縞模様を例にして、一様な場に縞模様や水玉模様がつくり出される、チューリングモデルを紹介する。第4章は、格子場に並ん細胞が場所を入れ替えたり分化状態を変化させたりすることで自動的にパターンをつくり出すモデル、セルオートマトンモデルについて説明する。維管束植物の葉に葉脈が形成されるモデルや、ニワトリやマウスで手足の原基ができてくるプロセスのシミュレータも紹介する。これらは近距離の相互作用によって全体としての秩序が形成されるとする「自己組織化」という考えの例である。第5章は同じく格子モデルだが、生態学とくに森林の空間パターンを理解するために用いられるモデルを紹介する。隣り合う状態の相関関数を追跡するペア近似と呼ばれる解析手法を紹介する。第6章は。。。

 第7章から第10章までは、「進化」のプロセスにもとづいた数理モデルである。進化の結果として現在見られる生物は、適応的な成長、形態、行動をとっていると考えられる。そのため工学で発達した最適制御の考えが役立つ。これが第7章のテーマである。植物を例にとって、成長や繁殖のスケジュールにはさまざまなものが見られるが、それらが動的最適化モデルによって統一的に理解できることを説明する。さらには、植物がアルカロイドのような化学物質をつくって昆虫などの植食者から逃れようとする化学防御、免疫系の生体防御、また軟体類の貝殻のつくりかたなどにも、同様な議論が使える。

 多数の個体が相互作用する場面では、個体によって利害が異なることが多い。そのときには、単なる最適化ではなく、ゲーム理論と呼ばれる数学が必要になる。もともとは社会科学において発展したものだが、生物学でとても役立つようになった。第8章は、性システムについて、魚の性転換や寄生蜂の性比をもとにして、ゲーム理論の適応例を紹介している。そのあと、雌雄の違いはどのように進化したのか、繁殖において子供をつくるときに複数の個体の遺伝子を混ぜる「有性生殖」がどうした進化したのか、などの議論を紹介する。

 第9章は、個体ではなく遺伝子がプレイヤーのゲームの話である。ゲノムの中にある別の遺伝子の間で利害の対立があるとするゲノム内闘争の話題、とくにその例として哺乳類のゲノム刷り込みを説明する。その準備のために、遺伝子発現レベルなど量的な形質が進化において変化することを表現するための数学、量的遺伝学にもとづく進化モデルについて紹介する。

 進化は、繁殖が繰り替えされるなかで、突然変異が現れてそれが広がり、またその次に別の突然変異が現れて広がる、ということが多数回行われて生じる。発癌のプロセスは、幹細胞が突然変異を蓄積する進化と見なすことができる。第10章では,この観点から染色体不安定性や組織構造の影響について取り上げる。また白血病の解析から、薬剤耐性のあるがん細胞が突然変異で出現することで薬が効かなくなるという典型的な進化シナリオを紹介する。これらは、集団遺伝学の確率モデルが活躍する分野なのだ。


 これらの章を通じて私が伝えたいメッセージは2つある。まず第1に非線形力学系の挙動の基本を理解してもらうこと、そして第2に、生物と生命システムは進化によって作られ選び抜かれてきたもので、そのことをもとにして一番よく理解できるということだ。

 10個の章ではそれぞれ違った現象を取り上げている。そのためどの章でも好きなところから読み始めてもらってよい。しかし生物学・生命科学で役立つ数理的手法をや概念を幅広く理解してもらおうとして題材を選んだため、できたら一通りでも講義で説明を受ける方が望ましいと思う。読者の中には、どのようなモデリングと解析ができるのかどうかを、トピックスとして知っておきたいという人がいるだろう。その便利のために技術的な話は付録や演習問題にまわした。

 しかし単に話として学ぶだけでなく、モデリング技術を習得し、みずからもモデルをつくる力をつけようとするならば、付録や演習問題も飛ばさず読んでもらいたい。またできることならば、まず「数理生物学入門」(共立出版)を読んで理解してほしいと思う。そこで取り上げたテーマは生態学に集中している。しかし生命科学で役立つ数学のほとんどは生態学での例を用いることによって一番よく理解することができる。だから細胞内の現象に興味があるシステムバイオロジーを専攻しようとする学生でも、一見遠回りにみえても、まずは数理生態学に触れることを勧めたい。


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