生態学は,動物の行動や植物の成長の仕方,外来侵入生物や病気の広がり,害虫の大発生,温帯でよりも熱帯で種の数が多い理由,気温の上昇にともなう植生帯の動き,などを考える生物学である。つまり生物の体内で生じている生命現象よりも,個体以上のレベルに主な関心があるのだ。以下では,その生態学に関係するさまざまな現象を数理モデルやコンピュータシミュレーションで解析する数理生態学について,第1線で活躍中の14人の方にお願いして,それぞれの研究を中心にさまざまの話題を分かりやすく紹介していただいた。
この本は,「生物物理学」シリーズの1冊である。生物物理学というのは,生命機能を担うタンパク質や核酸の構造と機能,生体膜の動態,などを取り扱うものではなかったのか。多くは細胞よりもさらに小さなレベルを対象として研究をすすめるはずであるのに,どうして生態学などという個体以上のいわばマクロレベルの生物学に関係してくるのだろうといぶかる読者がおられるかもしれない。
たしかに,生物物理学といえば,生命現象を担っている分子の物理学的手法による研究,もしくは生体分子を材料に使った物理学が大きな柱であろう。しかしそれに加えて,物理学的な考え方によって生命現象に迫るという面もあるのだ。生命というのは,非常に多数の化学反応が秩序正しく組合わさったシステムであるといえよう。これを1つ1つの反応を担っている分子,いわば劇を演じている役者,を特定していくというのは化学的なアプローチといえる。それとは対照的に,具体的にどのような分子がかかわっているのかはそれほど気にしないで,むしろ機能やダイナミックス,要素の組み合わせなどから理解すること,システムの本質的側面を数理モデルとして表現し,数式や計算機シミュレーションによって生命をとらえることができるとすれば,それはすぐれて物理学的なアプローチといってよいだろう。
このような研究法は,神経細胞における電気的興奮の伝播や筋肉収縮の分子機構の記述などミクロな対象から,発生過程で一様な場に形態が作られるメカニズムの研究,神経細胞のネットワークによる脳の働きの説明などにいたるまで,生物学のさまざまな分野で活躍してきた。そのなかでも近年ことに目ざましい進歩をみたのは,動植物の行動や生態,社会構造などの取り扱い,さらには人のライフスパンをはるかに超えた長い時間に生じる進化過程の解明などマクロ生物学における数理的研究である。これが理論生物学もしくは数理生物学と呼ばれるものであり,生物物理学の1つのセクションとして研究活動が続けられてきた。
この本では,生命の基本的ロジックをとらえるための方法や概念を紹介するために,細胞学・発生学や神経生理学の数理ではなくて,個体以上のダイナミクスとパターンをとらえる生態学の数理モデルをとりあげる。数理生物学の中でも,数理生態学はとくによく研究がすすんでいるが,生態学のモデルで用いられる基本的概念は,細胞内のプロセスや免疫系,発生などを理解するための数理モデルでもほとんどそのまま用いることができる。これは対象に因われないという数理科学のもつ性格があらわれているといえよう。
過去20年程の間に生態学の理論的研究はきわめて急速に進歩した。その原因はいくつか考えられる。1つには,非線形力学系に対する理解が格段に進んだことがあるだろう。生物学で現れる方程式は多くのものが非線形であり,そのために伝統的な物理学で有用であったような具体的な特殊関数で解を表現することは難しい。そのかわりに時間とともに系がある状態に近付いていくのか,そのような行き先は複数あるのか,また一定の状態ではなくて周期的な振動が生じるのか,などといった系の定性的性質に注目した解析が中心になる。計算機の高速化のおかげもあって非線形システムの解析方法が確立し,どのような現象が生じ得るかについてかなり明確なイメージが持てるようになった。カオスやフラクタルといったことばを聞いたことのある読者も多いと思う。簡単なシステムではモデルを入力すると自動的に分岐図や相図を描いてくれるプログラムパッケージまでできている。
数理生態学の取り扱う範囲が広がったもっとも大きな原因は,最適制御とかゲーム理論といった工学や社会科学で発展してきた考え方が生物学で活躍するようになったことであろう。生物の振舞いが効率のよく,うまくできたものだということは人々が古来から感じてきたことである。それを最適化の数理モデルで表して調べることが始まったのはここ20年ほどの比較的最近のことである。まずは動物の餌の探し方や選び方について,それが経済的に効率の高いものは何かという見方に立つ最適捕食理論が成功をおさめた。その後,たとえばサケのように生涯に1回だけ繁殖をして死ぬのか,マスのように成熟後も繰り返して繁殖できるのかといった生活史パターンのうちどれが進化で採用されるのか,制御工学の方法も用いてよく分かるようになってきた。
もう一つは,利害の必ずしも一致しない複数個体がそれぞれに自らにとって望ましい状態を実現しようと努めたときにどのような状況が実現するのかを考えるものである。経済学や社会学で発展してきた「ゲーム理論」が生態学や動物行動学と結び付くことによって,動物の社会行動や多様な配偶システム,植物の複雑な性表現などを統一的に理解することができるようになってきた。
これらはともに人間がある対象を設計したり制御する場面において積みあがられてきた技法,つまり工学的な方法を,生物を見るときに用いるものといってよいだろう。生命現象が他の物理現象と異なる点としてもっとも重要なことは,生物が,長い進化の過程をへて選び抜かれてきたシステムであるということだ。そのために生物の構造や機能を理解するうえに,物理学や化学で親しまれているロジックに加えて,「設計する」「制御する」といった工学的理解もしくは「効率よくふるまう」「闘争し協力する」といった経済学・社会学的理解というものが,大変有効であることが明らかになってきた。
その一方で,最近では,むしろ工学研究者の間で,機械やシステムの設計について生物のデザインにまなぶことが盛んになっている。集中制御ではなくて,多数の要素が比較的単純な相互作用を繰り返す中で,ときに複雑なパターンが形成され,それを利用して生物の機能が遂行されていることが,ことに生物らしいと言われる。要素の単純な相互作用から全体のパターンがつくりだされるという面には,統計物理学との相似もあり,物理学的な生命の理解の仕方といえるだろう。
ここ数年,生体内の現象,細胞内や細胞間の相互作用システムに対する理解について,生態学もしくは進化生物学において発達してきた概念やモデルが大変有効であることがいくつかの対象について明らかになりつつある。ここで,2つの例を挙げて,マクロな生物学の見方やモデリング技術が,ほぼそのままの形で,生体内の現象の理解にも役立つことを説明したい(ともに九州大学の数理生物学研究室での研究テーマ)。
免疫系は,多細胞生物の体に侵入するウイルスやバクテリア,菌類,原生動物などさまざまな寄生者に対する防衛のためのシステムである。ウイルスがホスト(宿主)の体に侵入すると,免疫系はそれを異物と認識して,さまざまな種類の細胞を動員して排除しようとする。このようすは,捕食者(食うもの)と被食者(食われるもの)の間での人口動態と大変似ている。ホストの体内ではウイルスは一時的に増えたとしてもそれに特異的な免疫細胞が増えると抑えこまれてしまう。そこで,ウイルスは突然変異をかなり高い頻度で起して,免疫細胞の攻撃からうまく逃れようとすることがある。しかししばらくすると免疫系はその新しいタイプを攻撃できるようになる。というふうに,ウイルスと免疫細胞との間で追い掛け合いが生じる(図1)。その結果,たとえばエイズをひきおこすHIVウイルスは宿主の体の中で突然変異と自然淘汰を受けて急速に進化することが知られている。マクロなレベルでの生物進化よりはずっと速いものの,基本的には同じ進化のプロセスが数年の間に生じるのだ。
第2の例として,哺乳類の「ゲノムインプリンティング」について説明しよう。通常は,それぞれの遺伝子について両親からの2そろいをもっており,子供の体内では両方が同じように発現される。ところが,哺乳類の胚にある遺伝子のいくつかのものは,父親由来の遺伝子だけが発現しており母親由来の遺伝子は不活性であることが知られるようになった(図2)。これらの遺伝子は,胎盤を大きくしたり出生後の行動を変えて母親からの栄養の供給に影響を与える働きがある。母親の限られた資源をめぐって兄弟姉妹と栄養を分けているのだから,多く獲得するほどよいということにはならない。母親が複数の雄を受け入れる場合には,兄弟姉妹との血縁関係は母親を通じての遺伝子のほうが高くて父親由来の遺伝子は低い。この状況で遺伝子にとっての損得の計算をすると,結果として父親由来の遺伝子がより多くの栄養を獲得するようにと進化し,母親の遺伝子は休んでしまうことがわかる。この遺伝子発現の問題は,母親からの資源を子供がどれだけ欲しがるのかという「親子の対立」という動物行動学の問題と同じ形をしている(瀬野裕美のセクションを参照)。
以下の各章では、数理生態学のさまざまな見方を紹介するために,それぞれのテーマで最先端の研究をしておられる方々に得意とする内容について自由に語ってもらった。これで数理生態学のある程度の範囲の話題をカバーできたと思うが,抜けた部分もまだまだある。以下に,それぞれの章の内容を紹介しながら,気がついた部分についても説明を加えたい。