生物学における数理

                                                  巌佐 庸 

           (応用数理、フォーラム記事、2000年12月号掲載予定)



                                            1.はじめに

 現代は生物学の急速な発展の時代である.

 20世紀中頃に遺伝子の分子構造が明らかになり、遺伝子やタンパク質などの研究技術が確立するとともに、それらを用いて生命現象の基本が1つ1つ明らかにされてきた.明確な構造をもたない球状の卵から背と腹の区別ができ、神経が造られ、目や脳、そして手足が生えてくるといった発生、外から体内に侵入した病原体に対して、以前の侵入者をきちんと記憶していて戦う免疫など、生物のもつ機能はうまくできていて、ときに神秘的にさえ思えるものである.しかしそれらも分かってみれば簡単な原理にもとづいて実現されている.たとえば、ガンというのは皮膚や肝臓などそれぞれの役割を担っていた細胞が、どんどん増殖しはじめ本来の場所を離れて動き回るためにおきる.20年程まえには、細胞がそれぞれの役割を認識する機構が分かるまでガンは理解でないと考えられていた.ここ10年程の間に、細胞の分裂を制御する分子メカニズムが明らかになったが、ガンというのは結局そのシステムの何ケ所かが故障することなのである.

 一方で、自然界は、農地・宅地の開発、化石燃料の使用、森林伐採など人間活動の影響から非常に大きな影響をうけ、気象など地球環境さえ大きく変化しつつあることが明らかになってきた.そのため人間の生存基盤となっている生態系への影響、毎年生じている多数の生物種の絶滅に対する社会の関心が強くなり、基礎科学としての生態学への期待はかつてない程大きくなっている.一方、ゾウリムシのような単細胞の生物から魚、そして鳥、そして人間のように複雑な構造をもつ生物ができてきた進化のプロセスも、なんら神秘的なことではない.進化は、むしろよく理解された生命現象の1つといっても過言ではない.

 このような生物学や生命科学の急速な進歩とともに、それに応じたさまざまな数理的手法、それらを基礎づける数学が必要とされるようになっている.以下には、21世紀の初頭において、生命現象に対する数理科学がとくに重要な進歩を遂げると思われる分野をいくつかあげてみたい.



                            2.野生生物集団の絶滅リスクの推定

 野外の生物が絶滅の危機に瀕しているという報告がしばしばなされる.たとえば日本の陸上植物のうちで20%が絶滅危惧種とみなされている.絶滅を防ぐために多大の努力が支払われるようになった.たとえ経済的には有用な開発計画も、野外の動物や植物に対する影響を考慮して変更や取り止めが行われるようになってきた.このような「保全」のためには、生物の集団が絶滅にいたる危険を推定することがまず必要になる.

 50個体程度の個体数が住める生息地さえ確保しておけば、絶滅は永久に回避できるのではないかと思われるかもしれない.しかし現実には長い間にはさまざまな形の環境変動が生じ、また環境は一定であっても個体数が有限であるために生じる確率性が集団の絶滅をもたらすこともある.ただし1つの集団が滅びたからと言ってそれで終わりではない.野外の動物や植物はいくつもの生息地に別れて棲んでいて、1つの生息地で滅びても、他の生息地からの移住によって再植民が行われる.このとき互いにつながった生息地のネットワークが全体として存続できる期待時間は、それらの生息地の間の移住によるつながりの関係や、生息地の間での環境変動の相関などに大きく影響を受ける.

 生息地がどのような関係にあれば、またどの程度の広さの場所を保護しておけば、十分安全なのかを考えようとすると、確率過程にもとづいた数理モデルの解析が重要になる.空間構造のある集団の動態というのは生態学で現在もっとも盛んに研究されているテーマであるが、数学的な研究が強く求められているテーマの1つである(矢原・巌佐編、 1997).

 また、自然界では、多数の生物種が互いに競争したり協力しあって生息している.そのため、1つの種が滅びた時にそれが他の生物にどのような影響を与えるのかについては今のところほとんど予測ができないというのが現状である.

 このような集団の絶滅のリスクを考える数理理論、また集団の交流によって危険がどのように減少するのか、などに関する数理的研究は、欧米、ことにオランダや北欧の数学者の間で精力的に行われている.日本でもかつて確率過程の研究者が分子進化学の研究プロジェクトに参加して共同研究を行って成果をあげた.そのような数学者による本格的な数理的研究の発展が、この生物集団の絶滅および保全に関しても強く望まれる.



                                3.微生物の進化のダイナミックス

 旧来の生態学理論においては、動物や植物の変動を考えるモデルでは、それぞれの種がその性質を変化させるといった進化や適応が生じないものと仮定して扱ってきた.進化は遠い昔に生じた現象であって、現在の生物はその結果つくられたものではあっても、目の前で進化が生じることなど考えなくてもよいとされたのである.

 しかし近年、進化が非常に短い時間スケールでも生じることがいくつかのケースではっきりしてきた.

 1950年代に、作物を食い荒らすウサギを除去する目的で、ウサギに致死的な病気をもたらす粘液腫ウイルスがオーストラリアに導入された.またたくまにほとんどのウサギが死んだ.しかし生き残ったウサギに対しては粘液腫の致死率が下がり、ウサギとウイルスとが共存するようになった.これはウサギが耐性をもつものが選抜されたことと、加えて宿主のウサギを生かして次の宿主に感染する時間を長くとれるウイルス系統が有利で広がったということによる.つまり宿主であるウサギと病原体である粘液腫ウイルスの両方の進化の結果である.同じような例として、数百年にわたる人間の歴史をみても、最初は非常に患者の致死率が高かった病気が、その後よりマイルドなタイプに置き換わった例が多々見られる.

 微生物が素早く進化できることは人間に恐ろしい結果をもたらすことがある.新しい抗生物質を使用しはじめるとしばらくはよいが、何年かするとそのうち効かなくなる.それは耐性をもつ細菌が出現し広がるためである.しかたなく新しい抗生物質を開発せねばならないのだが、それらにも次々と耐性をもつ菌が出現してくる.これは短い時間のこととはいえ、間違いなく、病原体の側に適応進化が生じたのである.最近は抗生物質がまったく効かない系統が出現して、医療の上で非常に大きな問題になっている.

 HIVウイルスにいたっては、宿主である感染者の体内において突然変異と免疫系による除去によってしだいに進化をしていき、感染後数年でもととは違ったDNA配列をもつタイプが多数共存する状態がつくられる.

 このような進化を取り扱う理論は、近年さかんに研究されるようになってきたが、いまのところシミュレーションによる研究が中心である.数理的な解析が加わることによって一般的な結論が導かれることがこの分野に強く求められている.

 微生物は世代時間が短いために、実験的に進化を引き起こさせる実験にも向いている.最近、ファージや細菌、単細胞の藻類をもちいた実験進化学が盛んに行われるようになってきた.いままでは、過去に生じた進化イベントは現世代の生物から推定することしかできなかったが、このような微生物をもちいた実験進化学の発展によって、数理モデルを直接検証することが可能になりつつある.



                        4.サーカディアンリズムと遺伝子ネットワーク

 多くの生物は、外界の24時間の周期にあわせて活動するものが多い.これは外界の1日周期を単純に反映したものかといえば、それだけではない.実験的にまったく恒常的な環境をつくっていても、ほぼ一日の周期で活動したり休んだりといった周期的なパターンを何日もくり返すからだ.それは生物個体が体内時計をもつことを示している.体内時計の周期は、たとえば25時間といった24時間とは違った長さをもっていて、外界の環境変動にあわせて毎日タイミングを調整しているのだ.

 このような時計の調整や働き方についての研究は時間生物学と呼ばれ、古くから数理モデルによる研究がなされてきた(川人 1991).20年程前の数理モデルは、ファンデアポル方程式のようにリミットサイクルをもつ簡単なモデルを仮定し、それらが拡散で結合するとフェーズがどのように影響を受けるか、外部からの周期信号にフェーズをどのようにシフトさせるかを考えるものであった.
 近年の分子生物学の進歩によって時計の実体がはっきりしてきた.ショウジョウバエの場合には、それはperiodと呼ばれる遺伝子である.period遺伝子が発現してつくられたPERIODタンパクは、何時間もかかって最終的に核に入り、自らをつくる遺伝子の発現を抑制してしまう.長い時間遅れをもつフィードバック機構のために、周期的変動がつくり出される.その途中にはいくつもの遺伝子が関与し、timelessという遺伝子の産物と複合体をつくって核に入る.また外界の光を受けて時計を調整することは、また別のタンパク質がperiodとtimelessの複合体を壊すことでなされることが分かった.

 こうして分子生物学によって明らかになった遺伝子群とそれらの間の相互作用によって安定なリミットサイクルをつくることができるのか、それは数理モデリングの得意な問いである.いままで実験的研究だけですすめることができると思われてきた分子生物学においても、このように数理モデルによる研究に対する期待がここ数年で急速に強まってきた.

 分子生物学の進歩により、免疫や発生といったさまざまな生理機能について、そこに関与する遺伝子群が特定され、それらの間の関係が明らかになってきた.その知識を総合すれば本当に期待したような機能が果たせるのか、それは「ポストゲノムプロジェクト」時代の生命科学において数理的研究に期待される役割なのである.

 分子生物学による知識をコンピュータにそのまま入れて、遺伝子の発現レベルや遺伝子産物の量変化を記述する連立微分方程式をたてさえすればそれでよいとの見方があるが、それでは不十分であろう.基本になる反応はどれで他はそれを修飾しているのだ、といった理解をしないと複雑すぎてよく分からなくなる.21世紀の初頭には、生体内のさまざまな現象について、本質を表す比較的単純な数理モデルを抽出し、その数学的性質をきっちりと明らかにするという数学研究が格段に進むであろう.

 もっと面白いことは、ここ数年にDNAチップをつくる技術が開発されたことである.これまでの分子生物学では、特定の遺伝子に注目し、それが影響を与えるもしくはそれに影響をもつ他の遺伝子を順番に調べていくという方法がとられていた.ところがDNAチップを用いると、同時に数千個の遺伝子についてそれらの発現量(DNAからつくられたm-RNAの量)を簡単に測定できる.異なる組織や異なる細胞での多数の遺伝子の発現量を時間を追って測定したデータが得られるのだ.特定の遺伝子をつぶしたさまざまな変異体についても、同様なデータを得ることが可能である.

 生命科学者は、このような膨大なデータを前にして理論的研究が必要だと感じはじめている.多量の情報が得られるときにそれから遺伝子の間の相互関係を推定する方法があるかどうか、これがここ数年の数理研究者もしくは情報科学者に対して期待される第1の問いである.このような新しい実験技術をもとにして、新しい数理的コンセプトや数理的技術が出現するだろうことは、ほぼ間違いない.



                                    5.生物のかたちづくり

 遺伝子の発現のパターンはわかったとしても、それから3次元の形ができることを理解するには理論的な研究が必要になる.生物の形作りについては、チューリング以来の反応拡散方程式の研究があり、化学反応系などとも共通したパターン形成の統一的理解がなされるようになってきた.三村昌泰教授らのグループの活躍もあり、反応拡散方程式系の研究は、世界の応用数学界において、日本での研究が特別に強い分野とみなされている.

 チューリング系の多くの研究は、生物の発生において、空間的に一様な場から非一様なパターンが安定して形成されるための条件を求めるものという一般的な問題意識ですすめられてきたが、具体的な生物システムでモデルの当否を検証するというふうにはならず、いわばメタファーの数学研究にとどまっていた.近年、分子生物学の発展の結果、形態形成が生命科学の焦点となるにつれて、この事情は急速にかわりつつある.発生における個々の現象について、関与する遺伝子の発現やタンパク質の動き、また力学的な研究が急速に蓄積されつつある.そのため、パターン形成の数理モデルについても各変数の意味が明確で、測定可能であるものが求められるようになってきている.

 また細胞が拡散する化学物質をつかって互いに影響しあうという反応拡散系以外にも、細胞の移動や変型、増殖などをふくむさまざまな試みがなされている(本多 1999).3次元の形が時間的変化をする様子を追跡するにはどうしてもコンピュータによる処理が必要で、その意味でも計算機が十分に速くなってきた今、生物の発生における3次元パターン形成の本格的なモデリングがようやく可能になったといえるだろう.



                                                6.おわりに

 生物学において数学がふんだんに活躍すると考えられる分野としては、以上にあげたもののほかに脳や神経系の理解がある.興奮神経細胞のホジキン・ハックスレーモデルをもとにして、神経細胞の発火やスパイクの伝播などについて調べる研究は20世紀の後半に盛んになされた.またそのような神経細胞が繋がった系の研究は、ニューラルネットワークモデルとして1980年代からとくにさかんになった.今後も、生理学的・心理学・認知科学の知見、さらには精神薬理学などとむすびついて、工学および統計物理学の数理研究者が参加して脳の理論は大きく発展していくであろう.

 生物学および生命科学の発展とともに、それらの中で数理的な法則性が主要な役割を果たすようになると私は思っている.すでに集団遺伝学や分子進化学、それに生態学などの分野では、理論的研究が分野の中で主要な役割を担うまでに成長している(巌佐 1997, 1998).今後は、発生生物学、免疫学、脳神経科学を含む多くの分野が数学的および情報科学的な理論を中心にすえた科学へと成長するであろう.

 また一方で、出来合いの数学の応用にはとどまらず、新しいタイプの数理を開発することが要求されるようになり、数学に新しい発展をもたらす可能性が大きいと私は考えている.19世紀から20世紀中頃まで、物理学を中心として数学が発展してきたとすれば、21世紀からは生物学それから社会科学などの解明に役立つ数理モデルの開発と、その数学的基盤を整備することが、非常に重要な分野となるであろう.

 そこでぜひ求められるのが数学者によるこれらの分野への参入である.たとえばオランダでは半群論で名をなしているOdo Diekmannが、一方でアザラシの病気のまん延のモデルや生息地が移住でつながった集団の絶滅リスクの計算といった生物学理論を研究し、新しい応用数学の分野を開いている.またアメリカでは最適制御の数理で活躍しているMarc Mangelや Thomas L. Vincentなどが動物行動学や生活史進化の理論をすすめている.また確率過程論のRichard Durrettが集団遺伝学や分子進化学、それに空間構造のある集団の生態学などで活躍中である.日本でも遠からず多くのすぐれた数学者が生物学の課題を研究するようになると期待したい.



                                                        引用文献

巌佐 庸(1998)『数理生物学入門:生物社会のダイナミックスを探る』共立出版.
巌佐 庸(編著)(1997)『数理生態学』共立出版.
川人光男  (1991) 時間生物学.『数理科学事典』大阪書籍 pp.235-244.
本多久夫(編著)(1999)『生物の形づくりの数理と物理』共立出版.
矢原徹一・巌佐 庸(編)(1997)「遺伝」別冊『生物多様性とその保全』裳華房

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