(I) 発生現象とは 動物の発生現象は、分子・細胞・組織・器官という異なる空間スケールでの現象がうまく統合されることで実現されるマルチスケールシステムである。また、形態変形とは、「力学的」現象によって誘導される「幾何学的」過程であり、その変形する場において各細胞が自身の時空間情報に基づいて運命決定を行うことでパターニングが実現される。これは「情報論的」過程である。このように、発生現象はマルチスケールシステムであると同時に、マルチフィジクス(マルチディシプリナリー)なシステムでもある。 (II) 発生生物学における理論的研究の目的 これまでの発生生物学は、分子生物学を中心として、器官形態に関連する多くの遺伝子群やその相互関連性、細胞応答など、ミクロな現象の情報を蓄積することで、マクロな形態の理解を目指してきた(ボトムアップ的アプローチ)。それに対して、理論的研究を行う意義は何だろうか? 以下、自身が行っている研究項目についての考えを述べる。一番重要なことは、理論は理論で閉じるのではなく、実験研究とのフィードバックを通じて現象の理解を目指すということである(もちろん、生物現象にmotivateされたシステムの数理的解析を深めるという理論的研究があって良いが、自身は現実の発生現象の理解を目指すという立場をとっている)。 (II-1) 力学モデリングとシミュレーション 組織変形は、細胞の増殖や成長、細胞自身が能動的に生み出す力によって生じる。発生中の組織内応力の計測は一部可能にはなってきているが、未だ難しい場合が多い。また、もし仮に力を計測できたとしても、組織の物性(例えば、ゴムのようにふるまう弾性的特性や流体のようにふるまう粘性的特性)が異なれば、同じ力学的環境においても変形様式は全く異なる。物性と力学環境の組み合わせに関する様々な仮定をおきシミュレーションすることで、実際の形態変化が何に起因するのかを推定し、実験検証に活かすことが目的である。 (II-2) (器官レベルでの)組織変形定量化と幾何学的解析 器官全体の形が時間と共に変わっていくのは、器官内の各組織小片(必ずしも細胞1個レベルでなくてよい)が場所ごとに異なる速度で体積を増減させたり、異方的に伸縮したりすることで実現される。体積変化率や変形異方性は、テンソルと呼ばれる幾何学量によって数値化することができる。各器官の形が違うこと、また相同器官でも種間で形が違うのは、対象ごとにテンソル量の時空間パタンが異なるからである。器官レベルでの定量イメージング(リアルタイムイメージングが無理な場合には、時空間的に離散な情報でも良い)を統計解析することによって時空間パタンを抽出し、パタン抽出後、これまでに蓄積されてきた分子・細胞現象と比較することで、実際の組織変形がどのようなミクロスコピックな現象によって制御・実現されているのかという対応関係の理解を目指します(このように、マクロ量からスタートしてミクロ量との対応関係を明らかにすることをトップダウン的アプローチといいます。)
また、定量化された幾何学情報は、(II-1)の力学モデリングで得られた結果と比較することで、モデルの仮定の妥当性を評価する際にも利用可能である。 (II-3) 空間情報のコーディングデザイン 組織成長やパターニングを実現するためには、組織内のどこで、どの程度の頻度で細胞増殖が起こるか、あるいは、どこにある細胞が状態Aに分化してどれが状態Bへ分化するのか、などと言った「空間認識」に関する問題が生じる。各細胞は、各発生ステージにおいて、自身がおかれた空間座標(x,y,z)を直接知ることは当然できない。その代わりに、細胞外を拡散する分子の濃度(勾配)や近隣の細胞との相互作用を通じて自身の位置を認識して運命決定を行う。 このような環境を通じた空間情報の認識で問題となるのが、「環境のゆらぎ」や「応答の仕方」である。環境のゆらぎとは、例えば胚ごとのモルフォゲン発現量のばらつき(個体間ゆらぎ)や、分子が組織中を拡散するときに生じるばらつき(個体内ゆらぎ)のことである。細胞が自身の位置を知る手がかりとなる情報源がそもそも不正確であるということである。また、そうした不正確なインプットを受け取った細胞が、細胞内部のシグナル伝達系を使ってどのように「計算」すれば、なるべく細胞応答のエラー(位置Aに置かれた細胞(細胞自身は自身がどこに置かれているかを直接知らない)が、本来位置Aに置かれた細胞がすべき応答ではなくて、位置情報認識の間違いから位置Bに置かれた細胞が取るべき応答をしてしまうというエラー)を極力減らすことができるだろうか? 上記の問題は、情報理論でいうところのコーディング問題(位置情報をどのように生成し、読み取るのが最適か)に対応する。情報論的に問題を定式化することで、(i)情報源であるモルフォゲンはどこで(局所的に)発現すべきなのか?、(ii)何種類の情報源を用いたらどの程度空間認識の精度が改善されるのか?、(iii)細胞内シグナルネットワークによって実現される応答関数の形やパラメータ値の最適デザインは?、などという問いに答えることが出来る。得られた結果を実際の現象と比較することで、現実のシステムが、どの程度、どういう意味で最適に設計されているのか、ということを検証することが可能となる。 (II-4) 細胞内外のシグナルネットワーク解析(システムバイオロジー) 上記(II-3)と密接に関連する項目として、これまでの分子生物学的研究によって明らかになってきた様々な細胞内外の分子シグナルネットワークに対し、数理モデル化することで、各ネットワークが持ち得る機能(例えば、多安定状態を生み出すスイッチ的機構として働く、濃度の時間的振動を生み出すオシレータとして働く、環境情報から自身の空間情報の推定機械として働く、など)を調べることを目的とする。ネットワークの構造(ネットワークモチーフ)ごとに特徴的な機能を明らかにすることで(例えば、positive feedbackならスイッチ、negative feedbackならオシレータやノイズ除去、feed-forwardならバンドパスフィルター、またそれら組み合わせによる適応的応答、外部環境のベイズ推定器、など)、シグナルネットワークを見たときに何をするためのものかを絞り込むことができる。もちろん、こうして絞り込んだ機能が各場面で実際に使われているかを実験的に検証する必要があるが、そのときにどのような量に注目すればよいか、に対して効率的にあたりをつけることにも役立つ。 |
Y. Morishita, Aug. 2006