私的数理生物学のススメ
これは、2013年に数理生物学会研究奨励賞を受けた際に数理生物学会ニュースレターへ寄稿した記事です。数理生物学・生態学を志す学生のみなさんの進路選択に役立てばと思い、掲載させていただきました。
序
私は、数理生物学会に育てていただいた。今回は数理生物学会研究奨励賞まで頂戴することになり、感謝の念が募るばかりである。特に、ここ数年は分野とメンタリティーの異なる研究者グループの中で孤独と戦い、国際試合[1]に負け 、ますます沈み行く気持ちを持て余す毎日であったため、この度の受賞は大きな励みとなった。本特別寄稿では、このような感謝の気持ちと、依頼された趣旨である若手を勇気づける内容になればという思いを込めて、筆を執らせていただいた。
進路の選び方
私の故郷である山口県山口市では、夏には庭で花火をしているとカブトムシが飛び込んでくるほど生き物が身近であった。そうした環境で子供の私は多くの動物を飼育した。森や草地、河や池で昆虫やネズミ、魚やイモリを捕まえては、図鑑の付録として収録されていた「動物の飼い方」をバイブルに飼い育てその成長と生態を観察することに、他の何よりも喜びと興奮を感じていた。ある夏の日、新しい生き物を見つけるため探検に出ていたときである。鳥の巣 を見つけたので近寄ってみると、幼い私にも背伸びをすると手が届くほど低い場所に作られた巣に、雛がいた。毛が生えはじめたばかりの小さい体に大きい口。その愛くるしさにキュンとした[2]。家で育ててあげたくて、手を伸ばして雛を巣から取り出し家に持ち返ろうと駆け出すと、上空で親鳥が「ギョギョギョ」と鳴きながらぐるぐると旋回し襲いかかってきた。怖くて身の危険を感じた子供の私は、すぐに雛を巣に戻そうとしたが上手くいかず、手中にある生温かい雛を草の根元に置き去りにして逃げてしまったのだ。頭を抱えながら一目散に家に逃げ帰ってからはずっとドキドキして残された雛が気になって仕方がなかった。翌日親鳥がいないことを確認して同じ場所に足を運んでみた。しかし、いくら草を掻き分けて探し回っても雛は見つからなかった。酷いことをしてしまった。
この出来事と同じ年の夏ではなかったと思うが、同様に探検に出ていた子供の私は、アブラゼミの幼虫がまさに羽化している瞬間を見つけた。まるで「受胎告知」の絵画のように、天使が舞い降りて神聖なお告げを受けているように見えた。ゆっくりと形を変える白い柔らかそうな美しい体に、触れずにはいられなかった。片方の羽を指先でツンツンとすると、羽化のプロセスが瞬く間に非対称になり片方の羽が小さいままの成虫の姿になってしまった。
他によく覚えているのは、カマキリの卵事件である。探検にいくとかなりの頻度で茶色いメレンゲのようなカマキリの卵を発見できた。持ち帰り机の引き出しに大事に入れておいたことなど、時が経つと忘れるものである。ある日引き出しを開けたとき「!?」子供の私は仰天することになる。3cm程度の赤ちゃんカマキリがとめどなく引き出しから湧いて出てきたのだ。子供部屋がカマキリの赤ちゃんで埋め尽くされそうになるのを阻止するため、母は引き出しごと庭に持ち出ししばらく放置した。すると、これらの小さい生き物達は次第に方々に拡散し、引き出しの中にはわずか数匹の個体が残されるのみとなった。意外に簡単に事件は落着したが、しばらくの間私は興奮状態にあった。一体誰が自分の机の中からカマキリが生まれてくると想像できるだろうか?
こうした自分の失敗によって、幾つかの貴重な命が失われてしまったことを、深く反省し、今でも罪深く感じている。反省とともに、これらの経験によって、自然は美しくて壊れやすく驚きに満ちたものであること、また数理生物学の重要なテーマである親と子の血縁、生物の発生、そして伝搬、について肌で学んだ(つもりである)。こうした生の体験を積み重ねることで、私の心の中に自然と生物とはどういうものかについて私的な像が出来上がっていった。この像をより真実に近づけたいというのが、昔から今までそしてこれからも変わることのない私の原動力である。こうした自分の心の中にある原動力に気付き、それに逆らわずに進路を選ぶと困難があったときでも頑張れるのではないかと思う。
大学院進学にあたり研究室の選び方
このようなものだから、大学学部で生物学を専攻することに微塵の迷いもなかった。九州大学の理学部生物学科に進んだ学部生の頃は良く遊んだけれど、図書館で良く本も読んだ。暗くなって帰宅する際、研究棟でまだ明りが灯っているのを見て、「時間を忘れて真理の探求に勤しむ研究者ってなんて素敵なの。私も早く一員になりたい!」と、思っていた[3] 。九州大学の学部教育は素晴らしい。通常のミクロ・マクロ生物学の実証的な講義に加えて、集団遺伝学と数理生物学という理論を教える講義を通じて、生物学においても厳密な論理展開によって現象の背後にある法則性を探るアプローチがあることを学び、魅了された[4] 。研究室配属が決まる4年生になる前、幾つかの研究室を訪問し話を聞いた。「熱帯雨林の研究をしたいんですけど...」漠然とした質問を投げかける私に多くの先生は厳しかったが、九州大学の巌佐庸先生(現関西学院大学)は「数理生物学やったらブラジルの熱帯雨林にいけるで 」と誘ってくださった[5]。また、まだはっきり説明できない自分の興味を何とか表現しようと「私は自分が何か知りたいんです」と訳のわからないことを真剣な顔で口にした私に、巌佐先生は「ぼくもそうや」と優しく答えてくださった。この言葉に私はビビッときた[6] 。この先生となら絶対に心の奥底にある真理に近づける。確信を持って巌佐研究室に行く事に決めた瞬間であった。
4年生から修士前半にかけては、数理生物の研究室にいながらも良くフィールド研究にご一緒させていただいた。沖縄ヤンバルの森林調査、タイのシロアリ調査、アメリカ西海岸旅行などに参加し、私の故郷とは異なる生態系とヒトを目にして世界の広さを感じつつあった。修士後半からは、私のライフワークである一斉開花研究と出会ったため、研究室、自宅、図書館で研究し関連した文献を貪り読む毎日だった。一斉開花とは実に壮大なイベントで、東南アジア熱帯林で数十種もの樹木が数年に一度一斉に開花するというものである。私達は、植物の栄養ダイナミクスを定式化し、周期的リズムさえもが不安定化したカオス的振動と開花リズムとを自然と結びつけることができた。そして、花粉を媒介して個々の植物がお互いに影響を及ぼし合うことで引き込みが生じ、個のレベルではみられなかった周期的な開花リズムが植物集団レベルで生じ得ることを示した。このモデルから紡ぎださせる世界がとても好きで、私はこのテーマを今でも研究している[7] 。
当時はpdfで論文をダウンロードするサービスが充実しておらず、文献を入手するために私は図書館地下の書庫に行って複写機でコピーしていた。書物の独特な匂いのする書庫で、所狭しと並べられた書棚から参考となる文献を取り出して読むとき、大事な秘密を手にする気持ちでワクワク感があった。有名な論文の著者の方々を尊敬し遥か遠い存在と感じながら論文を読んでいた大学院生の頃を思い出すと懐かしい。彼らは今ではメイルで現状を報告し合ったり、論文の査読を依頼し合ったりする身近な存在なのである。研究の世界では、出会うべく人とは必ず出会うのだ、と私は思う。そのためには、自分の研究成果は論文として必ず発表しなくてはならない。
博士研究員として過ごす研究室の選び方
一斉開花研究の成果を論文としてとりまとめて国際試合の最中にあったD2の頃、私はイギリスのシルウッドパークにある個体群生態学研究センターに留学していた。そこで、まだ発表されていない私の論文の内容を知っている人と出会った。その後、論文の査読結果が送られてきた時、査読者の1名が自分の名前と所属を明かしてくれていた。この人がOttar Bjørnstad、私がそれから数年後に学位を取得した後、博士研究員として共同研究をすることになる個体群生態学者である。長期データを扱った数理モデルに興味を持ちはじめていた私は、彼の研究に関心を抱いていたので大変幸運だった。
行き先を決める前に、彼にメイルを出してペンシルバニア州立大学の研究室を訪問した。それはちょうどハロウィンの時期で、街はお祭り、浮かれた雰囲気だった。私も無理矢理仮装させられ、長靴下のピッピとしてエルビス・プレスリー扮したOttarと一緒にパーティに参加した。そこで、蝋燭に照らされた薄暗い机でアメリカ流コックリさん による占いをやっているのを見つけた[8]。「Will Akiko come to PennState?」と誰かが質問をすると、硬貨がゆっくりと動いてYESと答えた。これで私の行き先は決まった。幸い、JPSP博士研究員の採択通知をいただき予算も確保できた。あとは運転免許!と意気込み、私は学位論文を書きながら自動車学校に通い真新しい運転免許証を手にアメリカに旅立つことになる。
思い返すと、将来日本で就職できるのか、という切実な問題をその頃の私はほとんど考えていなかった。いくつかの国内公募へ応募したが、どれも不採択だったという経験はD3の頃にした。ここで前途多難な将来を思い描き不安を感じることもあったと思うが、それよりも日本以外の外国を知らないで研究者になることのほうが、何故か私にはよほど不安に思えた。実際留学すると想像以上に大変な事が多くあったが、それよりも何倍もの素晴らしいこと、今の人生を豊かにしてくれる出来事が待っていた[9] 。
一つの出会いを紹介したい。私はプリンストン大学にも博士研究員として2年間滞在した。プリンストンでは、英語を母国語としない外国人のためのチューター制度がある。退職された年配の方がボランティアで受け持ってくださるのだが、私はそこで白髪の老紳士Rustyと出会った。週に1度、森に囲まれた彼の自宅で研究、文化、宗教など本当に様々な事を話した。彼は元CIA職員であり、戦時中は彼のみが知る核ミサイル発射ボタンが存在していたとも聞くほど、優秀な頭脳の持ち主だった。戦時中はグァム島で沖縄攻略に向けて待機し、もう少しの所で沖縄戦に彼も参画するところだったようだが、途中で終戦を迎え帰国したという。その彼がある日、涙目で「すまなかった、はだしのゲンを読んでわかったよ[10] 」と話してきたのである。まだ過半数が原爆投下を肯定しているアメリカである。彼は「それは誤りだった」と私に謝ってくれたのだ。そんなことを私に言われても、と思ったが彼の気持ちが伝わってきて二人で頬を涙で濡らした黄昏であった。これは、自分と立場の違う相手との真の交流とは何か、を私に教えてくれた。日本国内にいては、もしかしたらずっとわからない感覚だったかもしれない[11] 。
こんな思い出もある。ある秋の日、プリンストンにいる私を、巌佐先生が訪問してくださった。大学からプリンストン高等研究所まで一緒に散歩をしながら、種子散布や多種共存の話、カエデはマスティングをしないのは何故か、を話していた。プリンストン高等研究所を取り囲む森に入ると、全てが秋色だった。頭の上にはカエデやナラ類の色鮮やかに染められた葉が風に揺れ、ハラハラと落ち葉になって足下の絨毯の厚みがまた少し増す。「奇麗やなぁ、佐竹さんのお陰や」そう巌佐先生はおっしゃった。「え...なんで?」頭の上も足の下も、そして目の前の巌佐先生のコートも赤・赤・赤。まるで時が止まったように美しかった。私は今でもこのときのことを忘れない。
こうした私的な思い出も含めて、留学時代にかけがえのない経験をたくさんすることができた。人生の探検だったように思う。
就職先の選び方
プリンストン大学では、私がD2くらいの頃から準備をし始めていた、ヒトと自然との関わりを表現する数理モデルが形になりつつあり、ラトガーズ大学との共同研究も順調に進んだ。滞在期間も残り1年となった頃(学位取得後5年目にあたる)、就職活動を始めた。周囲のアメリカの友人は100を超える応募を出していたので、それに比べるとかなり少ないがノースキャロライナ大学やハワイ大学などアメリカの大学も含めていくつものポジションに応募した。ほとんどが不採択であった。2つの研究機関がインタビューに呼んでくれ、待遇が良かったのがスイス連邦チューリヒ工科大学(ETH)のブランチである水圏研究所Eawagグループリーダーのポジションである。アメリカ以外の国を見てみたかった。また、研究所のある古都ルツェルンは、鐘の音が鳴り響き風光明媚でお伽の国のように美しかった。新しい人生、期待を胸にスイスへ旅立った。
欧州には、アメリカとは異なる研究者コミュニティーがあった。チューリヒはもちろん、ローザンヌ、ドイツのベルリン、ライプツィヒにある大学、研究所を訪問し話をさせていただく機会を持つ度に、新しい方々と知り合った。中でも良かったのは、ローザンヌ工科大学(EPFL)で博士研究員をしていた物理学者が一緒に修士学生を指導しないかと誘ってくれたことだ。これがきっかけに、私はポルトガル人のアントニオくんを初めての学生として指導することになる。その他、分子生物学者との交流を通じて、開花時期を制御する分子機構に関わる研究に着手したのがこの頃である。移動中の電車の中でまだ慣れない開花遺伝子の名前は呪文のようであったが、論文を読み進めその面白さにドキドキした。生態学的に興味深い形質は、未だにその分子レベルでのメカニズムがわかっていないものが多い。しかし「開花タイミング」、適応度に直接的に影響する非常に重要な形質、においては分子レベルのメカニズムがまさに解明されつつあった。一斉開花の研究を発展させるためにも「次はこれだ!」と直感した。車窓から見える羊の群れを目で追いながら、志を強くした。
スイス(特にルツェルン)には独特の社会規範が存在することも知った。この保守的な社会規範は自由を好む私のやり方と何度も衝突し、心が折れそうになる。アメリカでは、目を瞑ると開けた輝く大地が頭に浮かんでいたのに、ルツェルンでは高い壁に囲まれた暗い部屋しか見えなかった[12] 。沈み行く精神状態を何とか上向きにしてくれたのは、音楽 [13]とスノーボードであった。しかし、冬期休暇を取得し嬉々としてツェルマットスキーリゾートへ出発しようとしていた矢先、チューリヒ近郊のスキー場で転倒し右肩を脱臼骨折という、人生最大の肉体的痛みを伴うアクシデントが生じた。腕とともに心もポキッと折れた。そうした事もあり、縁のあった北大のポジションへ応募し幸いにも採択さたので、研究所の方々には約1年間という短期間の滞在となり本当に申し訳なかったが異動することに決めた。札幌へ引っ越してからの私の生活は、右腕のリハビリから始まることになる。
研究室運営の仕方
そういう経緯で札幌へ越して以来、本稿を執筆中の2013年3月で5年が過ぎた。今は右腕も普通に動き、スキーもしている。未熟な私は、研究室の運営にあたり多くの困難に直面しているが、学位を取得したばかりの頃に抱えていた漠然とした不安は、今はない。この理由は、限られた期間ではあったがアメリカとヨーロッパの両方で研究がどのように進められているかを体感し、私なりの理解が得られたと思っているからである。私の理解を要約すると、「どの国の研究者も皆同じ人間」、という当たり前のことになる。恐れることはない。神様のように思えていた異国の大御所の方々であっても、幾度も国際試合に負け、「審判からのコメントに数日立ち直れない」と同じような弱みを吐かれる、共感できる存在なのだ。「科学に国境はない」とルイ・パスツールは言った。「しかし、科学者には祖国がある」これも有名な言葉である。自分の祖国で国境なき科学を志す後進を安心して育成するためには、私には一度国境を越えることが必要だったのだと思う。
今、何よりも感慨深く感じるのは、羊の群れを眺めながら誓ったこと、開花時期制御に関わる仕事が北大へ異動してから着実に実現されていることだ。JSTさきがけから予算をいただけたことがきっかけで、私は子供の頃に戻った気がしている。数理モデルの開発と解析だけではなく、色々な方に教わりながら植物を育て野外と実験室でデータを取ることが純粋に楽しい。そして、これまで何度も失敗し時間がかかったが、オリジナルな発見ができたと思う。その成果がなかなか受入れられずに孤独な時間を過ごしていただけに、会った事もない当分野の第一人者から共同研究の誘いが来たときは実に嬉しかった。「面白さをわかってしてくださる人がいる」と知るのは、自然の秘密を発見することと同じくらい価値があるように思った。一方で、「マイノリティであり続けること」も常にオリジナルな研究を発信するために大切である。身につけないといけないのは、両者の間のバランス感覚である。
私が大学院生の頃に聞いた「学生が卒業する度に寂しい気持ちになるんや」と少ししょんぼりしたお顔でおっしゃった巌佐先生の言葉の意味が、今はとても身に染みる。そして、母親の料理の味付けを真似するように、巌佐先生の研究室運営の仕方を無意識に真似しようとしている自分に気付く。今から半年前、巌佐先生の先生でおられた亡寺本英先生(京都大学教授)はどのようなお考えの持ち主であったか知りたくて、「寺本先生の思い出:寺本先生追悼文集」をお借りして拝読した。学問のなかで自称浮気性の寺本先生は、統計物理、生物物理を放浪された後に数理生物学、なかでも数理生態学という住所に10年以上居心地良く住みつかれることになったそうである。寄せられた思い出の文章をみると、私が学生の頃からお世話になった数理生物学会員の方々からの言葉が並んでいる。日本数理生物学会の雰囲気が凝縮されているように思われるとともに、時代とともに複数の分野にまたがって脈々と流れる数理生物学という川のささやかな一部として現在の自分があるように感じた。この度の受賞は、こうした思いもあり数理生物学会の皆様に心より感謝する次第である。
おわりに
細分化や専門化が益々進みつつある現在の学術世界において、分子から生態系、そして人間社会までを対象にする数理生物学は、学問の境界を越えた深淵な何か(生命の本質と言えるだろうか)に迫る可能性を秘めていると私は思っている。また、仕事の効率性とスピードが要求され時間に余裕のない現代の研究の世界であっても、最も大事な研究を楽しむ心を忘れずにホモ・ルーデンスとして生きる方々が、数理生物学会の中には非常に多いのではないかと思う。本稿では、数理生物といっても「生物」が強調された私的な文章となってしまったが、こうした研究スタイルも懐の広い数理生物学会は受け入れてくださることと信じている。
実は、岡山大学で行われた受賞講演の会場には、実の母がいた。講演を聞いて「ああちゃん、大人になったんやねぇ」ともういい歳をした私に言ってくれた。未だマイノリティである女性研究者として生きる道を選びここまで歩んでくることができたのは、母のリベラルな考え方と教育方針のお陰である。いつも見守ってくれていることに感謝したい。